戊辰戦争年表帖 page 11/26
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27会津戦争哀歌と逸話◆「 城下の女性たちの悲話の数々」 滝沢峠の戦いで戦死した河か原わら善ぜん左ざ衛え門もんの妻あさ子は老母きく子、幼女くに子を伴い石塚観音堂に参まいった後、老母と幼女を介錯し、その首....
27会津戦争哀歌と逸話◆「 城下の女性たちの悲話の数々」 滝沢峠の戦いで戦死した河か原わら善ぜん左ざ衛え門もんの妻あさ子は老母きく子、幼女くに子を伴い石塚観音堂に参まいった後、老母と幼女を介錯し、その首を衣に包み下僕に菩提寺の香こう花か院いんに葬ほうむらしめ、そして自分は髪を切り薙なぎ刀なたをひっさげて城内に入っていった。 また、朱す雀ざく寄合組三番中隊頭西郷刑部は越後口に出陣中であったが、その妻絲子27才は夫に後こう顧この憂いを無くすため一家の命を絶った。彼女は白無垢の死装束をし、まず長男精一郎2才・長女かね5才を刺し殺し、次いで夫の母いは子と妹すが子19才を介錯した後、邸宅に火を放ち、その火中で喉をつき自決した。同家の女中はその遺書をたずさえ越後口の陣中に刑部を訪ねて行った。 また軍事奉行添役柴太一郎は弟二人と戦場にあった。第三弟の四郎16才は病気で寝ていたが、西軍が城下に迫ると知った母フジ子50才は四郎の枕まくら辺べに来て「お前も武門に育って16才、父や兄のもとに駆けつけ戦え」と送り出した後、フジ子は祖母つね子81才、太一郎妻徳子20才、太一郎妹土屋素衣子19才、同妹さい子7才と共に白装束に着替えて仏間に集まり本二ノ丁の自邸に火を放ち自決した。五男の五郎10才はこの日、親族宅に居たがこの知らせを受けて急いで帰宅すると、もう一家は灰になっていた。この五郎は後の陸軍大将柴五郎である。 また、藩の重役・沼沢出雲の妻道子51才も同じく自決した一人である。祖母貞子82才を駕籠にのせ城に入ろうとしたが、西軍があふれており入ることが出来ず、邸に帰ると貞子を介錯して火を放ち、二女ゆや子27才、三女須賀子23才と共に自決して果てた。 また、士中青龍隊長の永井左京は越後口の戦場で左腕を負傷、自宅で療養中であったが西軍が城下に押し寄せるを見た彼は、長男尚千代15才に伝でん家かの宝刀を授け「父の分まで働け」と励まし、下僕の安吉と共に城へ送り出した後、母つる子62才、妻すみ子30才、姉やえ子38才、長女ふじ子14才、次男英記11才、三男8才を刺し殺し火を放って自決した。下僕の安吉は開城の後、焼跡に至り七人の遺骨を拾い香花院に葬った後、安吉は七人の戒名を袋に入れ、終生首にかけて離すことなかったと伝うる。 士中青龍隊小頭・西郷寧太郎の妻やほ子16才は新婚であった。西軍が城下に迫ったので祖母なほ子60才、姑みね子44才、夫の姉うら子20才と共に城内の諏訪神社に詣もうで、一家自決を計った。その際、やほ子は絶息せず苦しい息の下から姑のみね子に介錯を頼んだ。みね子も息たえだえだったが「そなたも武士の娘、自分で死ねぬとは恥ずかしくないか」と励ました。やほ子は再び剣を取り喉に突きたてて絶命したという。 また藩士中野慎之丞は長男を伴って戦場にあり、その妻やす子34才は、慎之丞の父太二郎72才、姑やほ子67才を介錯した後、長女しん子15才、二男省吾11才、二女みつ子9才、三女たけ子6才を刺し殺した上、家に火を放って自決して果てた。西軍進入の城下では女性の血みどろの悲劇がくり広げられていた。◆「 会津士魂を貫く女性たちの悲劇 「娘じょ子し軍の戦い」 八月二十五日、西軍は城外の市街を全部焼き払い、国境から帰ってくる会津兵を遮断した。この日、越後口の守備隊も引き上げてきたが、関門の柳橋(涙橋)は長州、美濃高須、大垣の藩兵が固め