戊辰戦争年表帖 page 14/26
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48 西暦1868慶応4明治11/25【1/1】徳川慶よし喜のぶ(1837~1913)、薩摩藩の罪状を列挙して、奸臣の引き渡しを要求。諸藩に討薩の出兵を、大目付には「討薩の表」を持って上京するよう命じる。その前衛として幕軍15....
48 西暦1868慶応4明治11/25【1/1】徳川慶よし喜のぶ(1837~1913)、薩摩藩の罪状を列挙して、奸臣の引き渡しを要求。諸藩に討薩の出兵を、大目付には「討薩の表」を持って上京するよう命じる。その前衛として幕軍15,000人、大坂城を出立。伝習隊、会津藩、新選組230人、桑名藩を先鋒として、姫路・高松・伊予松山・大垣・鶴田(美みま作さかの国くに)(元浜田藩)・忍・長岡・笠間・鳥羽の諸藩兵が後陣である。00011/26【1/2】「鳥羽・伏見の戦い」の前哨戦ともいうべき、「兵庫沖・阿波沖の海戦(2日~4日)」が起きる。兵庫出港、藩地へ向かう薩摩藩船「平運丸」を、旧幕府軍艦「開陽」・「蟠竜」が和田岬沖で砲撃。「平運丸」は舳へ先さきを返して兵庫港に逃げ込む。00021/26【1/2】老中格大河内正まさ質ただ(上かず総さ国のくに大多喜藩主)(1844~1901)を総督、若年寄並・塚原昌義(1825~?)を副総督とする幕府諸藩連合軍15,000人、大目付・滝川播磨守具とも挙あき(?~?)が徳川慶喜の無罪を訴え、薩摩藩を訴える「討薩の表」を掲げ、京都へ進撃、淀に本営を置く。00031/26【1/2】前年12月24日国許を発した讃岐国多度津藩(丸亀藩支藩)6代藩主・京極高たか典まさ(1836~1906)、入京し恭順。多度津藩は、前年12月は、京都御所日之御門(内裏)警衛をしていた。藩庁は、現・香川県仲多度郡多度津町。00041/26【1/2】夕刻、陸奥国会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。伏見御坊(東本願寺伏見別院)(現・京都市伏見区大阪町)を宿陣とする。00051/26【1/2】「兵庫沖・阿波沖の海戦(2日~4日)」。薩摩藩使者が軍艦乗組頭取(開陽艦長)・榎本武たけ揚あき(1836~1908)を訪ね、昨日の「平運丸」砲撃を抗議。榎本は、昨年末より旧幕府と薩摩藩は交戦状態であり、万国公法に則った行為であるとしてこれを拒絶。00061/26【1/2】因いな幡ば国のくに鳥取西館新田藩10代藩主・池田徳のり定さだ(1848~1910)、着京。支藩として、宗藩鳥取藩と共に新政府側に与して伊勢桑名藩と戦うことになる。藩庁は、現・鳥取県八頭郡若桜町。00071/27【1/3】(大坂)幕府老中・酒井忠ただ惇とう(播磨国姫路藩第9代藩主)(1839~1907)、各国代表に対し、軍艦兵器を薩摩藩に売らないことを要請する。00081/27【1/3】肥後国熊本藩11代藩主・細川慶順(韶よし邦くに)(1835~1876)が病中として、12月18日国許を発った名代養子喜のぶ廷なが(護もり久ひさ)(藩主弟)(1839~1893)が、この日、着京。0009徳川慶喜大河内正質京極高典