戊辰戦争年表帖 page 20/26
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54 慶応4明治11/29【1/5】午前8時、徳川慶喜征討大将軍・仁和寺宮嘉よし彰あきら親王(後の小松宮彰あき仁ひと親王)(1846~1903)は、東寺を発し、鳥羽街道を下鳥羽から横大路村へ進む。その後、淀で待機する。004....
54 慶応4明治11/29【1/5】午前8時、徳川慶喜征討大将軍・仁和寺宮嘉よし彰あきら親王(後の小松宮彰あき仁ひと親王)(1846~1903)は、東寺を発し、鳥羽街道を下鳥羽から横大路村へ進む。その後、淀で待機する。00411/29【1/5】徳川慶喜征討軍参謀・西郷吉之助(隆盛)(1828~1877)は、3日伏見の戦線、5日には八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認。00421/29【1/5】「戊辰戦争ー鳥羽・伏見の戦い(淀千両松の戦い)」。徳川慶喜(1837~1913)、会津藩別選隊を率い、「鬼の官兵衛」と薩長に恐れられた佐川官兵衛(1831~1877)を呼び、歩兵頭並を任命。淀藩の入城拒否で淀堤千両松で激戦、会津藩・新選組多数の戦死者を出し、橋本方面へ退却。新選組井上源三郎(1829~1868)ら隊士14名戦死、山崎蒸すすむ(1833?~1868)重傷、佐川官兵衛は、右目下に炸裂弾を受け負傷。負傷者は天満八軒家の船宿・京屋忠兵衛方に入る。奥詰衆(将軍の親衛隊)・伊庭八郎(1844~1869)、淀堤千本松で胸に銃弾を受ける。00431/29【1/5】「鳥羽伏見の戦い」で会津藩大砲隊頭として鳥羽街道を進んだ、白井五郎太夫(胤忠)(1832~1868)はこの日、銃弾に当たって負傷、29日、淀で没する。享年37。00441/29【1/5】山本八重弟・山本三郎(会津藩)(1847~1868)、鳥羽伏見の戦いに参戦、淀で銃弾を受ける。00451/29【1/5】朝廷、日向国高鍋藩10代藩主・秋月種たね殷とみ(1817~1874)に勅し、急ぎ世嗣・秋月種たね樹たつ(1833~1904)を上京させ、従二位参議の大原重しげ徳とみ(1801~1879)の衛兵を差し出すことを命じる。00461/29【1/5】東海道鎮撫総督・橋本実さね梁やな(1834~1885)、京を発する。00471/29【1/5】山陰道鎮撫総督・西園寺公望(1849~1940)、京を発する。1月7日、丹波国園部に到着。00481/29【1/5】(京都)北陸道鎮撫総督府設置され、9日には高倉永なが祐さち(1838~1868)が総督、四条隆たか平とし(1841~1911)が副総督に任命される。参謀は、津田信弘(山三郎)(肥後熊本藩)(1824~1883)・小林柔吉(安芸広島藩)(1837~1869)。00491/29【1/5】公卿・四条隆平(兄隆謌の養子)、朝命を奉じて山崎の伊勢国津藩の守備陣地に赴き、守将・藤堂采女元もと施ひろ(1836~1878)に沙汰を伝えて恭順を迫る。0050佐川官兵衛大原重徳蜂須賀茂韶西暦1868