院政・源平年表帖 page 10/20
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西暦11547月29日鳥羽御堂御所造営成り、鳥羽法皇(1103~1156)が移る。鳥羽御堂は、鳥羽殿仁平40379きゅうじゅ(久寿1)最大の寺院、金剛心院で、その御所が田中殿である。8月8日鳥羽法皇による新御堂法会・仏像安....
西暦11547月29日鳥羽御堂御所造営成り、鳥羽法皇(1103~1156)が移る。鳥羽御堂は、鳥羽殿仁平40379きゅうじゅ(久寿1)最大の寺院、金剛心院で、その御所が田中殿である。8月8日鳥羽法皇による新御堂法会・仏像安置の儀式がある。平清盛(1118~1181)・平時忠(平時子の同母弟)(1130~1189)ら、院司として列席。しゅ8月18日乙姫宮(後の?し子0380内親王)(14歳)(1141~1176)、内親王となる。議するも決ま0381らず、とりあえず「寿子」と命名。8月29日しゅし寿子内親王、名を改め「?子(よしこ)」とする。0382たか8月―藤原隆よし能(生没年不詳)、この月、鳥羽の金剛心院の扉絵を描いた賞として、0383正五位下を与えられる。江戸時代から、「源氏物語絵巻」は、隆能筆と伝えられる。9月―この月、延暦寺僧徒が強訴。038410月21日白河御堂三重塔が完成、供養する。038510月28日きゅうじゅ久寿に改元。038611月16日大炊御門烏丸の皇后御所が、放火により焼亡する。皇后宮(藤原多子)は、0387内府(皇后の祖父・内大臣実能)三条西洞院家に渡御。ため11月26日源為義(59歳)(頼朝の祖父)(1096~1156)の八男・源為11月―とも朝(1139~1170?)、九州で0388の乱行により、この日、朝廷より召喚される。為朝13歳の時、父為義の不興を買い、鎮西(九州)に追放されたが、鎮西八郎、鎮西の惣追捕使と自称して狼藉、菊池氏、原田氏など九州の豪族たちと数十回の合戦や城攻めをかしいぐう繰り返し、3年のうちに九州を平らげてしまった。香椎宮(福岡市東区大字香椎)じにんの神人が、為朝の狼藉を朝廷に訴え出たため、出頭の宣旨が出されてしまう。為朝はこれに従わなかった。0389木曽義仲この月、駒王丸(後の木曽義仲)(1154~1184)、源義賢(義朝の弟)(生年不詳~1155)の次男として誕生。源頼朝・義経とは従兄弟にあたる。誕生月は、異説あり。西暦115546久寿22月27日ただ前関白藤原忠源義朝4月3日ざね実(1078~1162)、播磨国大国の庄に寺領千石を賜って、鳥羽東0390庭に不動明王堂を建てる。きたむきざんその後身が、現在の北向山不動院(京都市伏見区竹田浄菩提院町)である。0391源為義(59歳)(頼朝の祖父)(1096~1156)、解官される。11日とも。これをためとも機に嫡男の義朝(1123~1160)に家督を譲り、隠棲生活に入る。源為朝(為義の八男)(1139~1170?)の九州での乱行による。為朝はそれを知り、更に朝廷から九州の豪族に対して「為朝に味方しないように」との命令が出されたため、手勢を率いて上洛する。4月11日平清盛(1118~1181)の次男・基盛(1139~1162)、院判官代に補され、翌日、左兵衛尉に任じられる。4月27日藤原頼長(1120~1156)、左大臣の辞退を上表。一回目。03920393