院政・源平年表帖

院政・源平年表帖 page 11/20

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西暦1155院政・源平年表久寿2 5月3日藤原頼長、左大臣の辞退を上表。二回目。0394藤原頼長5月10日藤原頼長、左大臣の辞退を上表。三回目。0395こう5月13日藤原頼長室幸6月1日し子、頼長と同居していた土御門殿を出て....

西暦1155院政・源平年表久寿2 5月3日藤原頼長、左大臣の辞退を上表。二回目。0394藤原頼長5月10日藤原頼長、左大臣の辞退を上表。三回目。0395こう5月13日藤原頼長室幸6月1日し子、頼長と同居していた土御門殿を出て一条富小路の右少将0396きんちか藤原公親(幸子の弟)の宅に移る。こうし藤原頼長室・従三位幸子(1112?~1155)、没。享年44。幸子の父・内大臣藤原0397さねよし(徳大寺)実能(1096~1157)と頼長(1120~1156)を結んでいた絆は絶たれ、実能は頼長と疎遠となって行く。実能は、頼長から離れて美福門院(藤原得子)(1117~1160)に接近し、皇太子・守仁親王(後の第78代二条天皇)(1143~1165)の東宮傅になる。三条烏丸御所は、徳大寺実能が鳥羽法皇に献じ御所となった。三条烏丸御所跡碑は京都市中京区三条通烏丸西入ル南側。また、実能は、のりきよ歌人として有名で、かつての家人・西行(佐藤義清)(1118~1190)と親交が深かったという。6月7日第76代近衛天皇、重病となり、父の鳥羽上皇や母の美福門院が連日のように病気平癒の祈祷を行うも効果がない。6月26日源義国(1091?~1155?)、上野国足利荘で没。享年65。(「尊卑分脈」)。源義0399家の子(三男或いは四男)。義国の次男義康(1127~1157)は嫡流を継ぎ、源姓足利氏の祖となる。長男義重(生年不詳~1202)は、上野国新田荘の地を領して新田氏の祖となる。7月22日平重盛(清盛の長男)(1138~1179)、中務少輔になる。0400まさる7月23日第76代近衛天皇(1139~1155)、崩御。享年17。皇后・多子(1140~1202)は、後0401に近衛河原に幽居する。鳥羽上皇と美福門院との間に生れた近衛天皇は、後に、鳥羽離宮安楽寿院新御塔に葬られる。鳥羽殿は、院政を始めた白河(第72代)・鳥羽(第74代)二代の上皇と、鳥羽・美福門院系統の天皇の墓所という性格も備えていた。7月23日鳥羽法皇(第74代)と美福門院は臨終に駆けつけようとするが、既に没した0402との報告を受け、そのまま鳥羽殿に留まる。午後4時頃、法皇は、藤原忠通に関白の地位を保証する、高松殿を新しい内裏とする、近衛天皇の葬儀責任者に忠通派藤原伊通(美福門院の従兄弟)(1093~1165)を充てると忠通に伝える。(「兵範記」)。こ0398近衛天皇陵(京都市伏見区)47