院政・源平年表帖 page 12/20
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西暦1155上徳寺(京都市北区)久寿27月24日23日深夜から、後継天皇を決める王者議定が開かれる。忠実・頼長は、排0403除される。早朝、鳥羽法皇四男雅仁親王(後白河天皇)が皇位継承者に決定する。後白河天皇木曽義....
西暦1155上徳寺(京都市北区)久寿27月24日23日深夜から、後継天皇を決める王者議定が開かれる。忠実・頼長は、排0403除される。早朝、鳥羽法皇四男雅仁親王(後白河天皇)が皇位継承者に決定する。後白河天皇木曽義仲巴御前7月24日せんそ「後白河天皇(第77代)、践祚」。0404孫王(後の第78代二条天皇)(13歳)(1143~1165)が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王(後白河天皇)(1127~1192)が立太子しないまま29歳で即位ただみちすることになった。復権した藤原忠通(1097~1164)・信西(藤原通憲)(50歳)(1106~1160)らは、鳥羽法皇(第74代)(1103~1156)を動かして崇徳上皇(第75代)(鳥羽法皇の第一皇子)(1119~1164)の皇子重仁親王(1140~1162)を排し、鳥羽法皇(第74代)の第四皇子・雅仁親王(後白河天皇)の即位、その皇子・孫王(守仁、後の78代二条天皇)の立太子を実現する。7月24日藤原忠通(59歳)(1097~1164)を関白とし、藤原頼長(36歳)(1120~1156)は、0405内覧停止。頼長は完全に失脚。ち8月1日第76代近衛天皇、船岡山の西野で火葬にされ、遺骨は知そく足いん院本堂に安置さ0406れる。京都市北区紫竹東栗栖町にある常徳寺は、知足院の跡地一部に創建されたとされる。8月4日孫王(守仁、後の第78代二条天皇)、仁和寺から還御。04078月15日しめこ第76代近衛天皇中宮・呈子(ていし)(1131~1176)、出家する。04088月16日よしとも「大蔵合戦」。父義朝(1123~1160)に代わって鎌倉に下っていた悪源太・源義0409平(義朝の長男)(1141~1160)、所領争いから叔父・源義賢(木曽義仲の父、義朝の弟)(生年不詳)を急襲、武蔵国比企郡大蔵館で討つ。義朝は、京育ちのそ異母弟達とは反りが合わず、とりわけ、次弟義賢と三弟義広(義範)(生年不詳~1184)は、義朝の上洛と入れ替わるように東国へ下り、義賢が上野・武蔵、義広が常陸に本拠を置いて、義朝の勢力圏に北と東から迫る勢いを見せていた。駒王丸(後の木曽義仲)(1154~1184)は、母に連れられ木曽に逃れ、駒かねとお王丸の乳母が妻である中原兼遠(生年未詳~1181?)に預けられ、養育される。(「源平盛衰記」)では、巴御前(生没年不詳)は兼遠の娘で義仲の愛妾となっており、また一説によると、もう一人の娘は義仲の長男義高(1173?~1184)を生んでいるという。48