院政・源平年表帖

院政・源平年表帖 page 13/20

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西暦1155久寿29月15日ただ関白藤原忠藤原頼長源義朝9月23日みち通院政・源平年表(1097~1164)の室・藤原宗子(生年不詳)、没。崇徳天皇(第75代)0410の中宮となった皇嘉門院聖子の母。鳥羽法皇(第74代)(1103....

西暦1155久寿29月15日ただ関白藤原忠藤原頼長源義朝9月23日みち通院政・源平年表(1097~1164)の室・藤原宗子(生年不詳)、没。崇徳天皇(第75代)0410の中宮となった皇嘉門院聖子の母。鳥羽法皇(第74代)(1103~1156)は、忠通に籠居しないよう再三命じる。孫王(後の第78代二条天皇)(13歳)(1143~1165)に親王宣下、「守仁」と命名さ0411れ、即日、立太子する。第77代後白河天皇即位前である。立太子に伴い東さねよし宮傅は、内大臣藤原(徳大寺)実能(1096~1157)が任じられる。東宮亮・尾張守ちかたか藤原親隆(1099~1165)、東宮権亮・正四位下源定房(1130~1188)となる。参議左つねむねいし中将藤原経宗(二条生母・懿子の弟)(1119~1189)は、春宮権大夫に任じられ、むね皇太子の外戚として政治的地位を上昇させる。春宮大夫の権大納言藤原宗よし能(1085~1170)は、70歳を過ぎて高齢のため、経宗が実質的に春宮坊を取りこれかた仕切った。右衛門権佐・藤原惟方(二条の乳母・俊子の子)(1125~没年不詳)は、春宮大進に任ぜられる。藤原頼長(1120~1156)は、東宮傅を望んだが断られた。きん10月20日公能の息女で太皇太后多子の6才年上の姉・藤原(徳大寺)忻きんよしし子(1134~1209)、0412祖父内大臣徳大寺実能(1115~1161)の沙汰により、第77代後白河天皇(1127~まさるこ1192)に入内。妹多子(1140~1202)は、近衛天皇(第76代)皇后で、後の第78代二条天皇后でもある。10月22日源頼政(52歳)(1104~1180)、兵庫頭となる。041310月25日第77代後白河天皇、即位。後も「今様狂い」であった。041410月26日きんし藤原忻子(徳大寺)、従四位上女御となる。041510月―0416この月、源義朝(為義の長男、頼賢の異母兄)(1123~1160)、信濃国の源頼賢(為義の四男)(生年不詳~1156)討伐を、命ぜられる。義賢が甥義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯していた。しかし、義朝は動かず、志田義広(源為義の三男)(生年不詳~1184)も常陸国に引き籠もり、程なく当の頼賢も密かに帰京する。建礼門院(平徳子)11月10日平清盛(1118~1181)の次男・基盛(1139~1162)、この日、左衛門少尉に任じられる。12月9日守仁親王(後の第78代二条天皇)(1143~1165)、元服。0418か12月16日鳥羽法皇(第74代)(1103~1156)の皇后・高やの陽いん院たい泰し子か(1095~1156)、高やの陽0417いん院におい0419て没。享年61。遺骸は御願寺・洛東の福勝院護摩堂の板敷の下に埋葬。泰子は父藤原忠実から、高陽院領として知られる50余箇所の荘園群を伝領したが、死後、彼女の猶子・近衛基実(藤原忠通の長子)(1143~1166)に譲渡され、近衛家領の一部分となった。後ろ盾を失った藤原忠実(1078~1162)・頼長(1120~1156)父子の立場は次第に危うくなり、頼長の孤立は一層深まる。12月25日平清盛(1118~1181)の次男・基盛(1139~1162)、検非違使の宣旨を受ける。0420―とくここの年、平徳子(とくし)(後の建礼門院)(1155~1214)、清盛(1118~1181)の三女として誕生。母は平時子(二位尼)(1126~1185)。異母兄に重盛、同母兄弟しげに宗盛、知盛、重衡ひらがいる。042149