院政・源平年表帖 page 15/20
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西暦1156院政・源平年表6月1日この日以後、院宣により、下野守源義朝・源義康らが陣頭に参宿し、禁中久寿30432ほうげん(保元1)を守護する。6月3日崇徳上皇(第75代)(1119~1164)は、夜、鳥羽殿に鳥羽法皇(1103....
西暦1156院政・源平年表6月1日この日以後、院宣により、下野守源義朝・源義康らが陣頭に参宿し、禁中久寿30432ほうげん(保元1)を守護する。6月3日崇徳上皇(第75代)(1119~1164)は、夜、鳥羽殿に鳥羽法皇(1103~1156)を見舞0433これいに訪れたが、対面はできず。(「古事談」)によれば、法皇は側近の藤原惟かた方(二条の乳母・俊子の子)(1125~没年不詳)に、自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳は憤慨して鳥羽田中殿に引き返す。6月12日0434美福門院なりこ鳥羽法皇皇后宮・美福門院(藤原得子(とくし))(1117~1160)、出家、真性尼と号する。7月2日「鳥羽法皇、崩御」。「保元の乱」の元を生みだした鳥羽法皇(第74代)(1103~04351156)、安楽寿院御堂(東殿)で崩御。享年54。遺骸は、本御塔(鳥羽離宮安楽寿院の本御塔で三重塔)に葬られる。7月2日崇徳上皇(第75代)、鳥羽殿に臨幸。04367月3日0437源義朝「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流されよしともた。後白河天皇側の源義朝(1123~1160)、崇徳上皇方の左大臣藤原頼長(1120~1156)の東三条殿の留守居らを逮捕。くろ7月5日蔵うど人じ治ぶの部たい大ふ輔け源雅頼(1127~1190)、第77代後白河天皇の勅を奉じ、検らを召し仰せ、京中の武士の活動を停止させ、都を固めさせる。左衛門尉平基盛(清盛の次男)(1139~1162)、右衛門尉平惟繁(維繁)(生年不詳~1167)、源義康(1127~1157)らが参陣。び非い違し使0438鳥羽天皇陵(京都市伏見区)51