院政・源平年表帖 page 16/20
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西暦11567月5日鳥羽法皇の遺勅によって集められた出雲守源光保(生年不詳~1160)、和泉守久寿30439ほうげん(保元1)平盛兼(生没年不詳)ら源氏平氏の武士、皆悉く随兵を率いて、藤原忠通方として鳥羽殿に祗候する....
西暦11567月5日鳥羽法皇の遺勅によって集められた出雲守源光保(生年不詳~1160)、和泉守久寿30439ほうげん(保元1)平盛兼(生没年不詳)ら源氏平氏の武士、皆悉く随兵を率いて、藤原忠通方として鳥羽殿に祗候する。7月6日「保元の乱―6日~11日」はじまる。左衛門尉平基盛(清盛の次男)(1139~04401162)、東山法住寺辺で、大和国から入洛した崇徳上皇(第75代)・藤原頼長ちかはる方の大和源氏・源親治(生没年不詳)を捕える。7月8日鳥羽法皇初七日の法要、崇徳上皇は臨幸せず。04417月8日0442後白河天皇ただ「保元の乱」。第77代後白河天皇(1127~1192)、藤原忠ざね実(1078~1162)とその子・頼長(1120~1156)が、荘園軍兵を召集することを停止するよう諸国司に命じた綸旨を出す。後白河後見の信西(藤原通憲)(1106~1160)の策略である。源義朝7月8日「保元の乱」。この日の公卿詮議で、没収した手紙で、左大臣藤原頼長(1120 04437月8日~1156)の謀反は明白とし、11日に、頼長を配流することを決定という。「保元の乱―摂関家本邸・東三条殿没官」。よしともくろうど後白河天皇側の源義朝(1123~1160)と、蔵人えもんのじょうたかしなのとしなり衛門尉・高階俊成(生没年不詳)、左大臣藤原頼長の東三条殿(摂関家の本宅)と付属の蔵町を接収。藤原忠通が朝廷に依頼し派遣といい、頼長は宇治に滞在中であった。「東三条殿址の碑」は、京都市中京区押小路通釜座上松屋町。さ左0444東三条殿跡碑(京都市中京区)7月9日「保元の乱」。夜半、崇徳上皇(第75代)(1119~1164)、秘かに鳥羽田中御所を0445さきのさいいん出て、白河の前斎院(統子内親王、後の上西門院)御所に御幸。7月10日「保元の乱」。斎院御所手狭のため、崇徳上皇、すぐ南の白河北殿に移り、0446兵を集める。「白河北殿址」碑は、左京区丸太町通東大路西入南側(京都大学熊野寮内)。白河北殿址碑(京都市左京区)52