院政・源平年表帖

院政・源平年表帖 page 2/20

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西暦1148久安412月14日ただ藤原忠西暦1149ざね実(1078~1162)の北政所・従一位師しし子(1070~1149)、没。享年79。源師子は、0279白河天皇(第72代)(1053~1129)の後宮に入り、懐妊の後、藤原忠実の妻となり....

西暦1148久安412月14日ただ藤原忠西暦1149ざね実(1078~1162)の北政所・従一位師しし子(1070~1149)、没。享年79。源師子は、0279白河天皇(第72代)(1053~1129)の後宮に入り、懐妊の後、藤原忠実の妻となり、覚法法親王(第四皇子)(1092~1153)を産む。忠実との間には、高陽院泰子(鳥羽上皇(第74代)の皇后)(1095~1156)と藤原忠通(1097~1164)をもうけた。―この年、大原三千院の往生極楽院本尊・阿弥陀三尊像(国宝)が成る。0280久安51月19日しし藤原多子(9歳)(1140~1202)の入内は、養祖父藤原忠実の北政所・従一位師子0281の喪により見送られた。延勝寺跡碑(京都市左京区)2月13日従四位上越前守藤原俊盛(1120~没年不詳)ら、第76代近衛天皇の鳥羽法皇(第74代)への新年の挨拶に従い、勧賞を受ける。ぐぶ2月―この月、鳥羽法皇(1103~1156)、熊野詣。平家盛(忠盛の次男)、供奉。02833月15日平家盛(忠盛次男、清盛の異母弟)(1123?~1149)、没。享年27。病を押し0284て同行していた家盛は、参詣の途中で病が悪化し、都に戻る途中、宇治川これつなの落合辺りで、没という。家盛の乳母父・平維綱(生没年不詳)は、哀しみのあまりその場で出家したという。父忠盛は若くして亡くなった子を悼み、家盛の遺品を東大寺に納めたという。清盛の後継者としての立場が確定する。3月―この月、六勝寺の最後、近衛天皇御願の延勝寺が完成。02854月3日清盛父・平忠盛(1096~1153)、播磨守重任。02866月4日平頼盛(忠盛の五男、清盛の異母弟)(1133?~1186)、常陸介となる。母は、0287池禅尼(平宗子)(1104?~1164?)。7月9日平清盛(32歳)(1118~1181)、高野山大塔造営に、父忠盛の代官として登山。02887月28日内大臣藤原頼長(1120~1156)、従一位・左大臣となる。0289028238