院政・源平年表帖 page 4/20
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西暦115040久安62月7日まさるこ左大臣藤原頼長、女御藤原多子を皇后にするよう書状を奉呈。しめこ頼長は、権大納言藤原伊通娘・呈子(ていし)入内の噂を聞いた。常盤御前ただ2月12日藤原忠みち通これ(1097~1164)....
西暦115040久安62月7日まさるこ左大臣藤原頼長、女御藤原多子を皇后にするよう書状を奉呈。しめこ頼長は、権大納言藤原伊通娘・呈子(ていし)入内の噂を聞いた。常盤御前ただ2月12日藤原忠みち通これ(1097~1164)は、藤原伊みち通0303しめこ(1093~1165)の娘・呈子(ていし)(1131~1176)0304を猶子に迎え、鳥羽法皇(第74代)(1103~1156)に、「先例により執柄(摂政関白)以外の者の娘は立后できない」と奏上。呈子は美福門院(藤原得子)(1117~1160)の養女であり、忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持まさるこを図る。鳥羽法皇は、多子(1140~1202)を第76代近衛天皇(1139~1155)の皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとする。2月13日頼長は女御多子の立后を急ぐ必要を感じ焦燥し、父・忠実と相談。藤原忠実もこの日、鳥羽上皇に書を奉る。2月14日左大臣藤原頼長(1120~1156)は、第76代近衛天皇女御多子の仲睦じい有様を拝すべく参内。心には皇太子誕生の早からんことを熱望していた。天皇が馬となられ、多子がこれに騎乗されて遊んでいた。近衛天皇(12歳)(1139~1155)と多子(11歳)(1140~1202)は夜を専らとされるよりも、仲の良い兄妹のようであった。これでは皇子の誕生はなかなか望めない。仲のよいのは結構だが女御多子が幼すぎた。2月23日藤原忠実、再び書を鳥羽法皇(第74代)に奉る。頼長も美福門院に書を奉る。03072月24日藤原忠実は鳥羽法皇の御前に参上、立后のことを奏請。0308りつこうけんせんじ2月25日女御藤原多子立后の兼宣旨が下される。「兼宣旨」とは、前もって予告の宣旨。0309きよ2月27日第75代崇徳中宮・第76代近衛天皇皇太后・関白藤原忠通の長女である藤原聖0310ここうかもんいん子(1122~1182)、院号宣下、「皇嘉門院」となる。しゅ3月4日守かく覚03050306法親王(雅仁親王、のちの第77代後白河天皇の第二皇子)(1150~1202)、0311すえなりしげこ誕生。母親は権大納言藤原季成、(1102~1165)の娘・成子(高倉三位局)(生年不詳~1177)。ただ3月13日藤原忠みち通(1097~1164)、太政大臣を辞す。0312まさるこ3月14日女御藤原多子(11歳)(1140~1202)が、第76代近衛天皇(12歳)(1139~1155)の皇后に冊立される。皇后宮大夫には実父・徳大寺公(1115~1161)、権大夫には左大臣藤原頼長(1120~1156)の子・兼長(1138~1158)が就任した。公能は、よしこ忻子(きんし)(第77代後白河天皇中宮)(1134~1209)の実父でもある。ただ4月21日第76代近衛天皇生母・美福門院(藤原得子)(1117~1160)の養女で摂政藤原忠みちしめこ通(1097~1164)の猶子・藤原呈子(ていし)(1131~1176)が、東三条より近衛天皇に入内する。4月28日近衛天皇、初めて呈子に、渡御。呈子、女御となる。03154月―ないこうこの月、摂関家で内訌。「内訌」とは、うちわもめ。03166月22日きんよし能03130314しめこ女御呈子(20歳)(1131~1176)、立后、第76代近衛天皇(12歳)(1139~1155)の中0317宮となる。兄忠通と弟頼長の関係は修復不可能となる。呈子は、(「尊卑分脈」)では16歳とされる。ときわぞう義経の母・常磐(13歳)(1138~没年不詳)は、呈子が中宮とされた時に仕えた雑しぞうしぞうしめ仕であった。「雑仕・雑仕女」とは、内裏や三位以上の貴族の家に仕える女性の召使いのこと。みくしげどの7月2日賀陽院御匣殿(藤原頼長異母姉妹)(生年不詳)、没。皇后多子、頼長服喪。「御0318ぬいのつかさ匣殿」は、平安時代、縫司の女官たちの局する場所。または、「御匣殿の別当」の略。