院政・源平年表帖

院政・源平年表帖 page 5/20

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西暦1150院政・源平年表久安6 7月7日清水寺で寺僧間の争いが起こる。0319藤原頼長西暦1151久安7にん(仁平びょう1)じにん8月5日興福寺の衆徒、春日神人ら数千人が入京、歓学院(藤原氏の大学別曹)(京都市中京区坊....

西暦1150院政・源平年表久安6 7月7日清水寺で寺僧間の争いが起こる。0319藤原頼長西暦1151久安7にん(仁平びょう1)じにん8月5日興福寺の衆徒、春日神人ら数千人が入京、歓学院(藤原氏の大学別曹)(京都市中京区坊城通三条上る(西ノ京勧学院町))に至る。9月16日朝廷、山徒の争闘を禁じる。03219月25日前摂政関白忠実は、長男摂政忠通よりも次男左大臣頼長を偏愛し、忠実は0322忠通に摂政職を頼長に譲るよう度々命じたが忠通は従わなかった。鳥羽法皇の仲介にたいしても、この日、忠通は書状を奉り、摂政職については「収公せらるべし、譲与するあたはず」と答え、この書状を法皇から賜った父忠実は激怒する。9月26日―0320「忠通、藤氏長者を止む。従一位左大臣藤原頼長、藤氏長者となる」。藤原0323忠実(1078~1162)はこの日、長男の摂政藤原忠通(1097~1164)との義絶を宣言、忠通の氏長者を取り上げる。忠実は、源為義(頼朝の祖父)(1096~1156)・源頼賢(為義の四男)(生年不詳~1156)ら源氏の武力を背景に、摂関家の正邸である東三条殿や氏長者の世襲の荘園(渡荘)の証券、宝物の朱器・台盤・権はかり衡を接収。次いで忠実、鳥羽法皇に報告の書を奉る。次子頼長(1120~1156)を氏長者とする。摂政職任命は父忠実の自由にならぬが、頼長を藤原氏のまさるこ「氏の長者」とすることは父忠実の自由になる。摂関家では藤原多子(1140~しめこ1202)・藤原呈子(ていし)(1131~1176)の入内競争により忠実・頼長と忠通の父子対立が頂点に達していた。きよ忠通は、長女の皇嘉門院(藤原聖じゅんぼこ子)(1122~1182)が近衛天皇(第76代)(1139~03241155)の准母であることを盾に、自邸の近衛殿を里内裏とし、多子(1140~1202)を天皇から遠ざけることで対抗する。摂関家の内訌は院政の強化に好都合でもあることから、当の鳥羽法皇(第74代)(1103~1156)は、しばらくこれを静観する。しげ12月1日崇徳上皇(第75代)(1119~1164)の第一皇子・重ただ12月9日藤原忠みち通ひと仁まさる親王(1140~1162)、元服。0325(1097~1164)、摂政を止め、関白宣下。0326もりひと12月13日雅仁親王(後の第77代後白河天皇)(1127~1192)の第一子・守仁(後の第78代二条天皇)(8歳)(1143~1165)、着袴の儀が行われる。もとざね12月25日近衛基実(藤原忠通の子、妻は清盛娘・盛子)(8歳)(1143~1166)、元服し、正五位下に叙位。左近衛少将に任官。昇殿や禁色を許される。12月30日くろうど平重盛(清盛の長男)(1138~1179)、鳥羽法皇(1103~1156)の蔵人になる。03291月1日平重盛、従五位下に叙位。1月3日藤原忠実(1078~1162)は、源頼賢(為義の四男)(生年不詳~1156)(紀頼賢という0331ただみちもろざね説もある)に命じて、忠通(1097~1164)に譲渡していた藤原師実(1042~1101)・もろみち師通(1062~1099)の日記正本を没収し、頼長(1120~1156)に与えた。異母姉のかやのいん高陽院(泰子、鳥羽法皇の皇后)(1095~1156)も頼長の後ろ盾となり、頼長は彼女が所有していた東三条殿と並ぶ摂関家の拠点・土御門殿を譲られた。鳥羽法皇(1103~1156)は先の入内問題と同じく曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で頼長に内覧の宣旨を下した。ここに関白と内覧が並立する異常事態となった。こ03270328033041