院政・源平年表帖 page 7/20
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西暦1151仁平1藤原頼長9月8日院政・源平年表0343「頼長の厳格な政治姿勢は、多くの貴族の反感を買う」。内覧藤原頼長(1120~1156)、従者同士の争いを口実に、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣である左衛門督藤原家成(1....
西暦1151仁平1藤原頼長9月8日院政・源平年表0343「頼長の厳格な政治姿勢は、多くの貴族の反感を買う」。内覧藤原頼長(1120~1156)、従者同士の争いを口実に、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣である左衛門督藤原家成(1107~1154)の邸宅を破壊するという事件を引き起こし、さらに寺社に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとして流血事件となるなど寺社勢力とも対立を深め、徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。ただ9月11日散位源季房の報告を確認した関白藤原忠(1097~1164)、この日、内覧藤原0344頼長(1120~1156)の異図(謀反の心)を鳥羽法皇(1103~1156)に訴える。9月20日鳥羽法皇(第74代)は、御書に源季房朝臣書状二通を添え、禅閤忠実にその0345旨を示した。父忠実は直ちに次男の左大臣頼長を召し寄せ、法皇御書ほかを示す。その内容は、頼長が新帝の即位を策し、近衛天皇(第76代)の御退位を謀っていると訴えたものであった。10月14日孫王(後の第78代二条天皇(雅仁親王(後の第77代後白河天皇)の第一皇子)0346(9歳)(1143~1165)、仁和寺に入室。叔父・覚性法親王(鳥羽法皇の末子)(1129~1169)の弟子となる。10月18日小六条殿が再び放火とみられる火災に遭う。近衛天皇(第76代)(1139~1155)0347は、小六条殿から院御領の六条烏丸殿を経て、関白藤原忠通の近衛殿に中しめこまさるこ宮呈子(ていし)(1131~1176)と共に移る。皇后多子(1140~1202)とは別居されたままであった。近衛天皇と大炊御門殿の皇后多子は疎遠になるのはやむを得なかった。これが関白忠通の狙いでもあった。10月28日近衛殿の崇徳上皇(第75代)は、近衛殿が近衛天皇の皇居となったので東八条殿へ移る。11月2日崇徳上皇(新院)御所東八条殿が焼亡。新院は、三条烏丸桟敷殿へ御幸。034912月―みち通03480350関東に下向した源義広(頼朝の叔父、源為義の三男)(生年不詳~1184)、この月、常陸国に志田庄を立荘する。信太(志太)三郎先生と称する。この時の志田庄の本所は美福門院(藤原得子)(1117~1160)、領家は藤原宗子(後の池禅尼)(1104?~1164?)であり、その立荘を斡旋したと思われる常陸介が宗子の息子の平頼盛(忠盛の五男、清盛の異母弟)(1133?~1186)であった。以仁王―0351この年、鳥羽上皇(第74代)第四皇子・雅仁親王(のちの第77代後白河天皇)もちひとおう(1127~1192)の第三皇子・以仁王(1151~1180)、生まれる。母親は権大納言藤原すえなりしげこ季成、(1102~1165)の娘・成子(高倉三位局)(生年不詳~1177)。同母姉に歌人としょくしして名高い式子(しきし)内親王(後白河天皇の第三皇女)(1149~1201)がいる。西暦1152仁平2 1月19日大炊御門高倉皇后(藤原多子)御所が焼亡する。多子は、東三条第へ行啓。0352きんやす1月22日今夜、皇后宮(藤原多子)、東三条第より左少将藤原公保(1132~1176)朝臣宅0353さねよしきんよし(樋口町尻)に行啓。公保は、徳大寺実能の三男で、多子の父徳大寺公能(1115~1161)の弟。多子の叔父にあたる。3月7日鳥羽法皇(1103~1156)、五十の賀がある。035443