院政・源平年表帖

院政・源平年表帖 page 8/20

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西暦1152仁平23月16日もとざね別当の越前守藤原俊盛(1120~没年不詳)が、三位少将藤原基実(藤原忠通の子、0355妻は清盛娘・盛子)(10歳)(1143~1166)が、所々に昇叙の礼をし、美福門院の御所では慶賀されたこ....

西暦1152仁平23月16日もとざね別当の越前守藤原俊盛(1120~没年不詳)が、三位少将藤原基実(藤原忠通の子、0355妻は清盛娘・盛子)(10歳)(1143~1166)が、所々に昇叙の礼をし、美福門院の御所では慶賀されたことを奏聞する。3月―この月、清盛父・平忠盛(1096~1153)、内蔵頭を辞任。03567月9日下鴨社神宮寺御塔供養が行われる。0357しめこ10月19日第76代近衛天皇中宮・藤原呈子(ていし)(22歳)(1131~1176)、着帯の儀。しかし、懐妊は誤りであった。12月22日中宮呈子、出産準備のため内裏を退出。035912月30日藤原隆信(1142~1205)、越前守に任じられる。0360―03580361平知盛ときこの年、清盛の四男・知盛(1152~1185)、生まれる。母は平時同母兄弟に平宗盛、平重衡、平徳子(建礼門院)がいる。こ子(1126~1185)。西暦1153―この年、清盛、厳島神社社殿の造営をはじめると伝える。完成は翌年である。0362仁平3 1月13日平忠盛、刑部卿を辞任。0363平清盛1月15日0364「平忠盛、没」。公卿昇進を目前にしながら、病のため、平忠盛(清盛父)(1096~1153)、没。享年58。清盛(36歳)(1118~1181)、平家の棟梁となる。忠盛正室・宗子(1104?~1164?)は、即日出家して「池禅尼」となる。居所が六波羅の池殿であったところから池禅尼と呼ばれたとされる。左大臣藤原頼長(1120~1156)は、日記「台記」に記す。「数国の吏を経て、富はかさぬぼくすぐしか巨万を累ねたり。奴僕は国に満ち、武威は人に軼る。然れども人となり恭かっしゃしこれ倹にして、未だ嘗て奢侈の行あらず。時人之を惜しむ」。1月19日しめこ懐妊の近衛天皇中宮・藤原呈子(ていし)(22歳)(1131~1176)、内裏より雷解小路御所に行啓。雷解小路は別名「勘解由小路」。03652月―この月、従五位下蔵人・源頼政(50歳)(1104~1180)、美福門院昇殿を許される。0366源義朝3月2日しも源義朝(31歳)(1123~1160)、下つけの野0367かみ守となる。4月6日藤原親忠(得子の乳父(乳母の夫)で、美福門院加賀の父であり、隆信の母0368方の祖父)が病気により若狭守を辞任したため、藤原隆信(1142~1205)を任さねきよじ、藤原実清(生没年不詳)を越前守に任じる。藤原定家母が美福門院加賀。さねよし4月15日皇后宮(藤原多子)、祖父内大臣徳大寺実能の居所・持明院(室町末一条北行三町許り)に行啓。036944