院政・源平年表帖

院政・源平年表帖 page 9/20

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西暦1153院政・源平年表仁平3 4月15日未の刻(午後1時~3時)、五条坊門南・烏丸東に火災。因幡堂(平等寺)(京都0370西暦1154仁平4 4月―きゅうじゅ(久寿1)市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728)、祇園大政所....

西暦1153院政・源平年表仁平3 4月15日未の刻(午後1時~3時)、五条坊門南・烏丸東に火災。因幡堂(平等寺)(京都0370西暦1154仁平4 4月―きゅうじゅ(久寿1)市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728)、祇園大政所、そして大江家歴代の貴重ごうけな数万巻の書を蔵した江家文庫(千草文倉)が焼け失せる。祇園会の神輿渡御は、助正の霊夢により、助正邸宅を大政所旅所としてはじまったといい、その本来の大政所旅所が、京都市下京区烏丸通仏光寺下ル大政所町にある。豊臣秀吉の施策により、旅所は四条寺町に移されたが、現在もその故地に小社が祀られ、祇園祭の還幸祭に神輿がここに駐留する。5月28日左大臣藤原頼長(34歳)(1120~1156)、鳥羽院別当に任じられる。0371しめこ8月28日近衛天皇中宮・藤原呈子(ていし)(23歳)(1131~1176)、御産の無いまま15ヶ月を経過。(「兵範記」)。9月23日病気がちの近衛天皇(第76代)(1139~1155)、一時失明の危機に陥り、退位の意思を藤原忠通(1097~1164)に告げたという。(「台記」)。9月23日関白藤原忠通は、鳥羽法皇(第74代)に、「雅仁親王の息童」への譲位を奏請。0374僧侶となるために、仁平1年(1151)9歳で、覚性法親王(鳥羽法皇の末子)(1129~1169)に弟子入りした孫王(1143~1165)(後の第78代二条天皇)である。12月15日仁和寺御所が焼亡する。0375しめこ閏12月16日懐妊では無かった中宮呈子(ていし)(後の九条院)(1131~1176)、病も癒えて、0376兄の権大夫藤原為通(1112~1154)一人供奉のもと、雷解小路御所より内裏に還御。12月17日ともいう。やこの月、紫野社(今宮社)夜すら須い礼を、禁止する。0372037303775月7日前中納言藤原家成(1107~1154)、没。享年48。0378因幡堂(平等寺)(京都市下京区)45