明治・大正年表帖 page 12/22
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116 明治102/―この月、化か芥かい所しょ主任の吉井義之が、噂を聞いた西刑場跡で多数の人骨を、名を記した瓦片と共に発見。元尊攘派志士の吉井は、その人骨が元げん治じ1年(1864)7月20日六角牢で斬られた志士の骨....
116 明治102/―この月、化か芥かい所しょ主任の吉井義之が、噂を聞いた西刑場跡で多数の人骨を、名を記した瓦片と共に発見。元尊攘派志士の吉井は、その人骨が元げん治じ1年(1864)7月20日六角牢で斬られた志士の骨では無いかと推測し、これを府の勧業課長だった明石博ひろ高あきら(1839~1910)に届け出る。その骨は当時の犠牲者平野国臣等37名の骨と確認され、浄土宗竹林寺(上京区下立売通天神道西入ル行衛町)に手厚く改葬される。3/4 新島襄(1843~1890)、父民たみ治はる(1807~1887)に洗礼を授ける。3/4ロシア暦のこの日、チャイコフスキー(1840~1893)の「白鳥の湖」、モスクワ・ボリショイ劇場バレエ団が初演。3/9 高倉通魚棚の京都府下小教校を「京都小教校」と改称。(大谷中・高等学校の前身)。3/10 第六回京都博覧会開催「京都御所」(~6月22日)。100日間で63,782人が入場。3/―この月、増山守もり正まさ(1828~1901)の「明治新選 西京繁盛記」が発刊され、文明開化期の京都の様子が示される。増山守正は、丹後田辺(舞鶴)藩士の家に生まれ、21歳の時、江戸に出て医学及び儒学を学ぶ。24歳の時、京都に帰り医学を学び、26歳の時、帰郷して、京田村にて医業を開始。慶応3年(1867)、39歳の時、綾部藩に招聘された。明治維新後、明治8年(1875)、京都府に出仕して、庶務課簿書掛を勤めると共に地誌編纂に従事し、衛生事務、報告局を経て歴史部に勤め、さらに文部省に出仕、帝国博物館書記等を勤める。明治34年(1901)に退官。著書には他にも「旧習一新」、「因いん循じゅん一いっ掃そう」、「人体問答要略」等、数多くある。遺言の「虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す。須すべからく著作を後世に遺すべし」は有名。―この年、東京の開成学校と東京外国語学校で教授の任にあたっていた、フランス人レオン・デュリー(Leon.Dury)(1822~1891)が、フランスへの帰国に先だって京都を訪ね、府知事の槙村に「京都から、つぎの日本を背負ってたつ人材を養成しなければ」と説く。稲畑勝太郎(染色)、今西直次郎(製糸撚糸)、横田万寿之助(製麻)、中西米次郎(機械)、近藤徳太郎(織物)、佐藤友太郎(陶器)(1862~1940)、歌原十三郎(鉱山学校を卒業後、帰国前に死去)、横田重一(絵画と図案の勉強、帰国前に死去)の少年8名が選ばれる。4/12専門学校の東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学(東京帝国大学の前身)となり、日本で初めての近代的な大学が設立される。旧東京開成学校を改組して法・理・文の3学部、旧東京医学校を改組して医学部を設置。東京英語学校と東京開成学校普通科を改組し、東京大学予備門を設置。4月12日は、現在「東京大学記念日」となっている。4/23 「同志社分校女紅場開業願」(「京都府勧業課・学務課上申」)届出。4/24 京都府、避病院を、宇多野村法蔵寺(右京区鳴滝泉谷町)に設立する。府伝染病院のはじめ。4/28米国人女性宣教師A・J・スタークウェザーの同志社分校女紅場(のちの同志社女学校)が、京都府から認可される。4/28「西南戦争」休戦提案の島津久光(1817~1887)の使者・四男珍うず彦ひこ(1844~1910)・五男忠ただ欽かた(1845~1915)、不調に終わり鹿児島に向け、京都を去る。隠居生活の島津久光は、太政大臣・三条実さね美とみへの上書において中立の立場にあることを表明していた。― この年、新島八重(1845~1932)、同志社分校女紅場開校時に、礼法の教員となる。5/中旬ウィリアム・スミス・クラーク(William.Smith.Clark)(1826~1886)博士、札幌から帰国の途中、この月中旬に京都の同志社英学校を訪問し、教え子・新島襄(1843~1890)を励まし寄付をする。新島襄もアマースト大学でウィリアム・クラークから植物学を教授されていた。5/18この日、寺町今出川下ル西入ルのD・W・ラーネッド宅、基督教第一公会(西京第一公会、後の日本基督教団平安教会)での夕刻の礼拝で、アメリカン・ボードから最初に送られてきたオルガンが使われる。近所の人々は大いに魅せられる。西暦1877