明治・大正年表帖 page 16/22
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120 明治1011/20お雇い外人医師・ショイベ(Dr.Botho.Scheube)(1853~1923)、京都療病院に着任。ショイベは、故郷の母に宛てて月に2回のペースで書いた書簡を残す。11/―この月、東京の開成学校と東京外国語学校....
120 明治1011/20お雇い外人医師・ショイベ(Dr.Botho.Scheube)(1853~1923)、京都療病院に着任。ショイベは、故郷の母に宛てて月に2回のペースで書いた書簡を残す。11/―この月、東京の開成学校と東京外国語学校で教授の任にあたっていた、フランス人レオン・デュリー(Leon.Dury)(1822~1891)が、8名の京都府留学生と共に帰国する。12/6「国内初の有人気球」。初代島津源蔵(1839~1894)、科学思想啓発をねらう京都府の依頼で、京都仙洞御所の広場で、軽気球を揚げる。ガス球部分には胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重を用い、鉄くずと硫酸を四斗樽10個を使って発生させた水素ガスを内部に封入した。招魂祭のある同日に仙洞御所の広場で飛行試験が行なわれ、5万人の観衆の前で36mの高さまで気球は浮上したという。12/27八重兄山本覚馬(1828~1892)、京都府顧問を解任される。同志社女学校移転の件で、京都府知事・槇村正直(1834~1896)と離反する破目となっていた。12/― この月、新島襄、同志社英学校の時間割を作成。―この年、霊明神社の社殿敷地を除く上あげ知ち(知行地の取り上げ)で、1880坪余りが事実上没収される。墓碑は官修墳墓となり、官費による営繕、祭祀となる。霊山官祭招魂社(のちの京都霊山護国神社)が、皇室費用により社域が整備され、その後も続く。西暦1878明治111/2梅花女学校での親睦会に、新島夫妻、さく(佐久)(1810~1896)、みね(峰)(1862~1887)、伊勢みや(時雄妹、海老名美屋)(1862~1952)、出席。梅花女学校は、創立者の沢山保ぽう羅ろ(1852~1887)(日本で最初に按手礼を受けた牧師)、協力者の成瀬仁蔵(1858~1919)ほか数名により、キリスト教主義教育を建学の精神として、大阪市土佐堀裏町10番地に開校した。2/3ドイツ人ゴットフリート・ワグネル(Gottfried.Wagener)(1831~1892)、舎せい密み局きょくに招かれ、この日から3年間、理化学の教授にあたり、陶磁器や七宝の新しい釉薬、ガラス、石鹸の製造を指導する。「ワグネル博士顕彰碑」が、大正13年(1924)、万国博覧会参加五十年の記念博覧会が岡崎公園で開かれた際、ワグネルの功績を讃えて建てられた。京都府立図書館の脇である。2/4 京都府、女紅場規則制定、府下小学校内に女紅場付設を奨励。2/13 京都府、道幅確保のため、町家に一間引き下げを命じる。3/15第七回京都博覧会開催「京都御所」(~6月22日)。100日間で109,933人が入場。桂御所拝観がある。西暦1877ショイベ成瀬仁蔵沢山保羅