戦国時代の京都の史跡を歩く13コース

戦国時代の京都の史跡を歩く13コース page 6/12

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? 4 ? ?耳塚文禄・慶長の役の朝鮮・明兵の戦死者の耳や鼻を弔った塚で、当初は「鼻塚」と呼ばれていたが、江戸時代以降、林羅山がその著書「豊臣秀吉譜」の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、「....

? 4 ? ?耳塚文禄・慶長の役の朝鮮・明兵の戦死者の耳や鼻を弔った塚で、当初は「鼻塚」と呼ばれていたが、江戸時代以降、林羅山がその著書「豊臣秀吉譜」の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、「耳塚」との呼称が広まったという。明治31年(1898)、豊公三百年祭に際して、豊国神社、妙法院、高台寺、智積院、5.36km1コース約3 時間JR京都駅?(590m)??東本願寺?(240m)??渉成園(枳殻邸)?(475m)??ひと・まち交流館 京都(WC、京町家保存、展示室他有り)?(670m)??料亭道楽(島左近邸跡)?(115m)??専定寺(烏寺)(熊谷直実ゆかりの寺)?(50m)??耳塚(巨大な供養塔)?(95m)??豊国神社?(30m)??方広寺(国家安康の鐘)?(60m)??大仏殿石垣碑?(400m)?10三十三間堂?(190m)?11養源院?(110m)?12南大門(東寺の門を移築)・13太閤塀?(775m)?14新日吉神宮?(450m、山頂まで375m)?15豊国廟・16太閤坦(国松・京極竜子墓)?(650m)?17智積院?(85m)?東山七条バス停JR 京都駅より豊国神社、豊国廟コース耳塚一帯で顕彰祭が催される。耳塚も大改修され供養の法会が行われ、「耳塚修営供養碑」が建てられた。?東本願寺慶長7年(1602)、徳川家康は、隠居していた教如と接触。本願寺の西、烏丸七条に、12世宗主・教如の隠居寺が置かれた。後陽成天皇の勅許を得た家康の寄進により、本願寺(東本願寺)が建立、別立され、本願寺は東西に分裂した。寛永18年(1641)、徳川家光は土地(東洞院以東六条-七条)を加増した。土居まで寺域が拡張し、渉成園も含まれた。元治元年(1864)、禁門の変(蛤御門の変)で御影堂、阿弥陀堂が焼失。明治28年(1895)、両堂が再建され、阿弥陀堂は拡張される。現在、阿弥陀堂は修復工事中で閉鎖している。(2016年春頃まで)?渉成園(枳き殻こく邸てい)池泉回遊式庭園をもつ東本願寺の飛地境内地。寛永18年(1641)に三代将軍・徳川家光から当地(約一万坪)が寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされた。園内の諸殿は二度にわたって焼失。現在の建物は明治初期から末年ごろに至る間に順次再建されたもの。