武田家三代年表帖(上巻) page 11/20
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天文4 12月4日足利義晴派の安祥松平清康(1511~1535)、東条松平義春(?~?)との下和田(岡崎市下和田町)の知行権争いを一つの契機として、宗家との争いに至った足利義よし維つな派の桜井松平内膳正信定(?~1....
天文4 12月4日足利義晴派の安祥松平清康(1511~1535)、東条松平義春(?~?)との下和田(岡崎市下和田町)の知行権争いを一つの契機として、宗家との争いに至った足利義よし維つな派の桜井松平内膳正信定(?~1538)を守山に攻める。002312月5日松平清康、尾張国春日井郡森山(愛知県名古屋市守山区)の清洲城の支城・守山城(城主は織田信秀の弟・信光)攻め陣中で、家臣阿部弥七郎正豊に村正刀で暗殺される。主を失った三河勢は岡崎に撤退。俗に言う「守山崩れ」である。享年25。この事件を契機に、松平氏はその力を失い、家督を継いだ松平広忠(1526~1549)は、後に嫡男竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏に差し出すこととなる。■この年、主君・松平清康が尾張への侵攻を開始したとき、突如として陣中に阿部大蔵定さだ吉よし謀反の噂が流れた。これは織田信秀の謀略であったともいわれるが、清康はこの噂を信じ始めた。一方、定吉は覚悟を決め、子の正豊を呼んで二心なき旨を記した清康宛ての誓紙を託した。その数日後、尾張滞陣中に清康の馬が本陣で暴れ出した騒ぎがあり、これを父が討たれたと勘違いした正豊は、清康を誤殺。正豊自身も即座に植村氏明(1520~1552)に殺された。岡崎勢は撤退を余儀なくされ、若い宗家当主の急死により松平氏の三河支配が揺らいだ。この事件は後世「守山崩れ」と呼ばれる。定吉は責任を取って自害しようとしたが、清康の嫡男・松平広忠は定吉を許し、そのまま家臣を続けたという。002412月12日「井田野の戦い」。清康の死で岡崎城を攻めにきた織田信秀8千余を、清康の舎弟、広忠の伯父の松平蔵人信孝(?~1548)・同松平十郎三郎康孝(?~1542)兄弟8百が、井田野(愛知県岡崎市井田野)に戦い敗走させる、とされる。002512月27日吉法師(信長)の父・織田信秀(1510 ?~1551)、「守山崩れ」で退却する三河勢を追撃して三河国岡崎城まで侵攻するが、城北の大樹寺(岡崎市鴨田町広元)において松平清康弟・康孝に敗戦。002612月28日息子の罪の償いのため千松丸(仙千代)を護る阿部定さだ吉よし(1505~1549)は、松平仙千代広忠12歳(1526~1549)を伴い、夜陰に乗じて岡崎城を脱出。伊勢篠島の石橋五郎右衛門尉の尽力により、妙見斎住持・仙せん麟りん等とう膳ぜんに潜む。■清康の死による松平宗家の混乱に乗じて、清康の叔父で桜井松平家当主・松平内膳正信定(?~1538)が、清康の弟・松平信孝(?~1548)まで抱き込み、岡崎城を占拠。松平仙千代広忠は、信定から命を狙われる危険があった。002712月- 「吉田城の戦い」。今川家臣の朝比奈越前守輝勝・朝比奈摂津守・伊東左近将監祐時・岡部出雲守輝綱・長谷川石見守吉一が、吉田城(豊橋市今橋)の戸田金七郎宣成(?~1546)・牧野伝兵衛成しげ敏とし(?~?)を攻め落す。■松平清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人・牧野成敏がそのまま城主となっていた。0028西暦1536天文5 1月17日武田信虎(1494~1574)嫡男・太郎(後の晴信・信玄)(16歳)(1521~1573)、従五位下左京大夫に任ぜられる。00292月- 松平仙千代広忠、伊勢神戸(三重県鈴鹿市)の東とう条じょう吉き良ら左さ兵ひょう衛えの佐すけ持もち広ひろ(?~1539)に身を寄せる。持広は、広忠の義理の伯父に当たる。00302月- この月、松平広忠(家康の父)、朝廷に修理費50貫を進献。0031西暦1535その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 武田家三代年表帖 上巻43