武田家三代年表帖(上巻) page 13/20
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天文5 5月25日「花はな倉くらの乱らん―5月25日~6月10日」。駿河今川家中で御家騒動が起きる。太たい原げん雪せっ斎さい(1496~1555)ら重臣たちは、弟栴岳承芳(氏親三男)(18歳)(1519~1560)を還俗させ、京....
天文5 5月25日「花はな倉くらの乱らん―5月25日~6月10日」。駿河今川家中で御家騒動が起きる。太たい原げん雪せっ斎さい(1496~1555)ら重臣たちは、弟栴岳承芳(氏親三男)(18歳)(1519~1560)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、「義元」と名乗らせ後継にしようとする。外祖父福島上総介は、義元の異母兄弟・遍照院住職良真(玄げん広こう恵え 探たん)(1517~1536)を擁立し挙兵、内戦線状態となる。■今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島上総介が義元後継に反対。福島氏は氏親の側室が福嶋助春の娘で外戚にあたり、子の玄広恵探を擁立して対抗した。00385月25日「花倉の乱」。福島越前守、当構(駿府館)に夜襲。義元方は、岡部左京進親綱(?~1562)・三浦小次郎元辰の活躍で反撃。夜に福島党は久能山に引き籠る。00396月6日今川義元軍、駿府周辺制圧。義元、瑞応院(静岡市駿河区小坂)に禁制。00406月7日今川義元軍、山西(焼津・藤枝の周辺)に攻め入る。00416月8日今川軍・北条軍、方ノ上城(静岡県焼津市策牛)の加納兵太夫長久と葉梨城(花倉城)(藤技市花倉城山)を攻める。00426月10日「花倉の乱」。岡部左京進親綱、方上城・花倉城を攻略。寿桂尼が持参した重書(将軍から権利付与された文章。家督相続安堵と偏講授与の書類。又は、今川一族代々伝わって来た、櫃に収まった文書・書類。)を寿桂尼の投降により取り返す。さらに、岡部左京進親綱は、奪取された自己の拠点・朝日山城(藤枝市仮宿字堤ノ坪)を奪還する。00436月14日「花倉の乱」、終結。玄広恵探(1517~1536)、花倉城を攻められ、瀬戸谷の普門寺で自刃。日は8日、10日など、異説あり。福島上総介助春・石野河内守広成・魚任新左衛門尉・斯波吉俊・母福島氏も自害。この乱で、相模の北条氏の支援も得て、今川義元(1519~1560)が勝利し、家督を継ぐ。■寿桂尼が玄広恵探に与した説もあるが、信憑性は疑問という。00446月- 「花倉の乱」。武田信虎(1494~1574)、今川義元(1519~1560)を強力に推し、恵探側を匿った前島一門に切腹を命じる。そのため武田の奉行衆ことごとく国外に退く。00457月- この月、武田信虎(1494~1574)、今川義元(1519~1560)の斡旋により、公家三条公きん頼よりの次女(三条夫人)(1521 ?~1570)を嫡男晴信(信玄)(1521~1573)の正妻に迎える。信虎の貴種志向(高貴な家柄へのあこがれ)による。これを契機に中央貴族・京都大寺院との交流が活発になる。■三条夫人(本名は不詳)、姉には細川晴元室、妹には本願寺顕如の妻の如春尼(1544~1598)がいる。三条夫人の子には、長男武田義信(1538~1567)、長女黄梅院(北条氏政室)(1543~1569)、次男海野信のぶ親ちか(竜芳)(1541~1582)、三男武田信之(1543~1553 ?)、見性院(穴山梅雪室)(?~1622)がいる。00467月27日「天文法華の乱」。比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、早朝、四条口から京へ乱入、各所に放火。翌日まで持った本國寺を含め洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上。あおりを受けて、上京一帯が焼け、革堂行願寺、百万遍知恩院、誓願寺(浄土宗)も炎上。00478月3日越後守護代長尾為景(1489?~1543)、家督を長男晴景(1509~1553)に譲る。晴景、守護代となり、守護・上杉定さだ実ざね(1478 ?~1550)と争う。■二男虎千代(景虎、上杉謙信)(7歳)(1530~1578)は、林泉寺に入り、天室光育(1470~1563)に学ぶ。0048西暦1536その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 武田家三代年表帖 上巻45