武田家三代年表帖(上巻)

武田家三代年表帖(上巻) page 14/20

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天文5 8月4日松平広忠(家康の父)(1526~1549)、遠州掛塚(静岡県磐田市掛塚)を発し今橋(愛知県豊橋市今橋町)の牧野氏の元へ赴く。00498月15日松平広忠、世喜へ移る。00508月26日松平広忠、形原へ移る。00519....

天文5 8月4日松平広忠(家康の父)(1526~1549)、遠州掛塚(静岡県磐田市掛塚)を発し今橋(愛知県豊橋市今橋町)の牧野氏の元へ赴く。00498月15日松平広忠、世喜へ移る。00508月26日松平広忠、形原へ移る。00519月- 今川義元、小島領主・後藤三左衛門直光(基昌)を遣わし、松平広忠迎える。00529月10日今川義元(1519~1560)、小島領主・後藤三左衛門直光(基昌)が数百騎率い、松平内膳正信定に追われる松平広忠(家康の父)(1526~1549)を、牟呂城(室城)(愛知県西尾市室町)主の富永忠安(吉良持広の家老)へ入れる。■忠安の妻は、広忠の親戚。00539月16日清康の叔父で桜井松平家当主・松平内膳正信定(?~1538)、牟呂城を攻める。005410月10日阿部大蔵定さだ吉よし(1505~1549)、駿府へ赴き朝比奈駿河守氏秀を頼る。■今川義元「廃たるを興すは武門の面目なり。広忠の亡父清康は、今川家と好を通じ、両国の兵、互いに助成す。依ってその旧好を忘れず、又吉良持広存命の内、広忠を岡崎に還す事を堅く約束した」今なお疎意なき旨を誓う。0055閏10月7日松平広忠(家康の父)(1526~1549)、桜井松平内膳正信定(?~1538)に攻められ、牟呂が自焼し、今橋城(吉田城)へ退く。更に駿府に到り、今川義元(1519~1560)に面す。005611月3日今川義元、「花倉の乱」における岡部左京進親綱の戦功を賞し、給地を与える。005711月- 武田晴信(信玄)、信濃佐久郡の戦いに初陣。0058西暦1536北条氏綱46