武田家三代年表帖(上巻) page 15/20
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天文5 12月24日越後守護代長尾為景(1489 ?~1543)(66歳)(上杉謙信父)、病没。005912月26日武田晴信(信玄)(1521~1573)、海ノ口城(長野県南佐久郡南牧村)に平賀源心(成頼)を攻めて滅ぼす。信玄初陣と....
天文5 12月24日越後守護代長尾為景(1489 ?~1543)(66歳)(上杉謙信父)、病没。005912月26日武田晴信(信玄)(1521~1573)、海ノ口城(長野県南佐久郡南牧村)に平賀源心(成頼)を攻めて滅ぼす。信玄初陣ともいう。0060西暦1537天文6 1月13日「西条城の戦い」。西条吉良左衛門佐義郷(?~1537)が、家臣・妻の父後藤平太夫の計により尾張守護斯し波ば義よし達たつ(1486 ?~1569 ?)の婿になった為、朝比奈泰やす能よし(1497~1557)3千・松平広忠(家康の父)(1526~1549)1千5百、東三河軍兵1千余人が西条城(愛知県西尾市錦城)を攻める。吉良義郷は討死という。荒川甲斐守頼時・吉良上野介義安(神戸城東条持広養子)(1536~1569)は降参。今川義元は、吉良義昭(?~?)を西条城に入れ、大橋知尚を吉田城におく。吉良義安は駿河藪田に蟄居。■吉良義郷は、天文9年(1540)4月23日に、織田信秀(1510 ?~1551)との戦いで西尾城で討ち死にしたともいう。00612月6日木下藤吉郎(後の秀吉)(1537~1598)、尾張国愛智郡中村(名古屋市中村区)に誕生。00622月10日「甲駿同盟成立」。甲斐武田信虎は、長女・定恵院(信玄の姉)19歳(1519~1550)を、この日、駿河今川義元19歳(1519~1560)に嫁がせ今川・武田の同盟成立。武田信虎、娘の化粧料として、興国寺城(沼津市根古屋)・富士下方12郷を今川義元に贈る。■今川氏と同盟関係にあった相模の北条氏綱(北条氏第2代当主)(1487~1541)は、武蔵国の扇谷上杉朝とも興おき(1488~1537)・武田信虎(1494~1574)・今川義元(1519~1560)と敵対することになる。00632月20日「第一次河東一乱―天文6年(1537)2月20日~天文8年(1539)7月8日」、はじまる。武田・今川の同盟に反発した相模の北条氏綱は、出陣。駿河に出兵して興おき津つ(静岡市清水区興津)を焼く。00642月21日北条氏綱、富士川以東占領し、妙覚寺(静岡県沼津市下河原)・大石寺(富士宮市上条)・大平(沼津市大平)の星屋氏に禁制。00652月23日北条氏綱(北条氏第2代当主)(1487~1541)、富士郡に侵入。氏綱、大石寺に再び当手(自己の軍勢)に限定した禁制を発す。00662月23日武田信虎(1494~1574)、今川義元救援のため、この日出陣、ついで、御み 宿しゅく監物友綱(1546~1606)の案内で須走口まで出兵する。00672月26日善得寺(静岡県富士市今泉)・興国寺城(沼津市根古屋)、兵火により焼失。00682月- 村山浅間神社三女坊、在所を引き払い駿府に馳参する。村山大納言雪山(東泉院住持)、人質として北条方に奪われる。00693月4日北条氏綱、吉原(静岡県富士市)に布陣し今川軍と衝突。00703月7日北条氏綱、祈祷の巻数を贈った鶴岡八幡宮僧・相承院快元に、河東(河東と呼んだ最初の史料)の陣中より、今川軍に勝利して平定したことを伝える。00713月29日北条氏綱(1487~1541)、今川方の三河作つく手で 城じょう(愛知県新城市作手清岳)主・奥平九八郎貞勝(1512~1595)に、遠江を手に入れたなら5百貫文を与えるので、遠江国井伊谷の井伊氏と協力して早急に軍事行動するようと、書状を送る。■氏綱は遠州見付端城主・堀越氏うじ延のぶ(?~1563)や井伊氏、奥平氏を結び、今川家挟撃しようとする。0072西暦1536その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 武田家三代年表帖 上巻47