武田家三代年表帖(上巻) page 16/20
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天文6 3月- 天文2年(1533)に妙本寺を追放され還俗していた、日是が、北条氏に与した富士氏の反乱に同心し、久遠寺(静岡県富士宮市小泉)御堂・客殿などを焼亡させる。00734月20日「吉原の戦い」。矢部氏等の吉原....
天文6 3月- 天文2年(1533)に妙本寺を追放され還俗していた、日是が、北条氏に与した富士氏の反乱に同心し、久遠寺(静岡県富士宮市小泉)御堂・客殿などを焼亡させる。00734月20日「吉原の戦い」。矢部氏等の吉原衆、北条軍に叛逆した富士下方衆24人を討ち取る。00744月26日「見み 付つけ端は 城じょうの戦い」。遠江国見付城(静岡県磐田市見付)主・堀越六郎氏延は見付城篭城も、犬居城(浜松市天竜区春野町堀ノ内字犬居)主・天野与四郎景貞ら今川軍に攻められ敗死。見付端城乗崩時、天野小四郎虎景・天野孫四郎景義ら6人が疵きずを蒙こうむる。00754月26日北条氏綱、玉縄城(神奈川県鎌倉市玉縄)に着く。00764月27日扇谷上杉朝とも興おき(1488~1537)、武蔵国河越城(埼玉県川越市郭町)で病没。享年50。跡を子の朝とも定さだ(1525~1546)が、継ぐ。00775月1日駿河吉原に在陣中の北条氏綱、応援に大道寺盛昌(1495~1556)を呼び寄せる。大道寺盛昌、駿河国に出陣するも、4日、風波荒く兵船進まず。00785月22日北条氏綱(1487~1541)、東慶寺渭い 継けい尼に(義明の妹)に、小弓公方足利義明(?~1538)との和睦成立に感謝し起請文を提出する。00795月- 大久保忠俊(1499~1581)が帰国を促し、松平広忠(家康の父)14歳(1526~1549)は、再び牟呂城に入る。■忠俊は、徳川家康の祖父・松平清康の頃から3代に渡って仕えた宿老。岡崎に残る新八郎忠俊と弟甚四郎忠員・弥三郎忠久らに岡崎帰城を促され、千松丸(松平広忠)は茂呂城に戻る。00805月29日夜、岡崎を執っていた桜井松平内膳正信定(?~1538)が有馬温泉に赴く隙に、大久保忠ただ員かず(1511~1583)・八国甚六郎詮実・林藤助忠満・成瀬又太郎正頼・大原近右衛門惟これ宗むね(1516~1564)が、千松丸(松平広忠)を迎えに牟呂城に至る。00816月1日大久保忠俊、岡崎城を攻め、本丸の石川兄弟を討って開門。大久保忠俊は、駿河の千松丸(松平広忠)に、使者を遣わす。00826月8日松平広忠14歳(1526~1549)、前日からの交渉で、桜井松平内膳正信定(?~1538)と和議。00836月13日北条氏綱、海上が荒れ兵船進退不能の中、再び駿河国に出陣。翌14日、北条軍は、今川軍数百人を討ち取る。00846月25日松平内膳正信定と和議した、元服前の松平広忠(家康の父)(1526~1549)、駿府での人質生活から解放され三河岡崎城に帰る。00856月28日駿河国河東地域を占領した北条氏綱、武蔵国に出陣。00867月11日北条氏綱、三ツ木(埼玉県狭山市)で扇谷上杉方を撃破する。00877月15日北条氏綱(1487~1541)、河越城(埼玉県川越市郭町)を攻略する。扇谷上杉朝定は、武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)に敗走する。00887月18日北条氏綱、追撃して武蔵国松山城を攻め、城主難なん波ば田だ隼はや人との佐しょうら30人余を討つ。00897月20日武蔵国松山城(埼玉県比企郡吉見町)、落城。■武蔵国における北条氏の優位性は決定的となる。0090西暦153748