武田家三代年表帖(上巻) page 17/20
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天文6 9月22日「石橋館の戦い」。石橋弾正久勝の子弾正繁昌が謀反を企んだ。よって、四代宗家奥平貞勝(1512~1595)は、奥平出雲守貞盛・奥平土佐定雄、石橋奥平弾正久勝・石橋奥平太郎弾正らと共に、石橋館(愛知....
天文6 9月22日「石橋館の戦い」。石橋弾正久勝の子弾正繁昌が謀反を企んだ。よって、四代宗家奥平貞勝(1512~1595)は、奥平出雲守貞盛・奥平土佐定雄、石橋奥平弾正久勝・石橋奥平太郎弾正らと共に、石橋館(愛知県新城市作手町清岳)で、一族奥平弾正(石橋)家中43人を討ち取る。009110月3日公卿冷泉為和(1486~1549)、武田信虎(1494~1574)の懇望を受けて甲府に到着。009210月23日松平広忠(家康の父)、石川四郎康繁を駿府へ遣わし恩を謝す。■松平広忠は、八国甚六郎・大久保忠俊・成瀬正頼・大原惟宗・林忠満に、三河国帰国に際しての忠節を賞し15貫文加増する。009312月9日松平広忠12歳(1526~1549)、元服、東条吉き良ら持もち広ひろ(清康の妹婿)(?~1539)、烏帽子親。広忠の名は彼の偏かた諱いみな授与によるとされる。0094― 「吉田城の戦い」。大崎城主戸田金七郎宣成(?~1546)、同族の牧野成敏家臣戸田新次郎(氏輝)・戸田宗兵衛尉(重光)と、吉田城の牧野伝兵衛成敏を攻略する。■牧野氏を追った戸田宣成が、吉田城(豊橋市今橋)城主となる。0095― 今川氏、「第一次河東一乱」をきっかけに、伊勢海賊の脇氏・相須氏・中西氏・浅沼氏を招聘し、清水に駐留させる。0096西暦1538天文7 1月- 扇谷上杉朝とも定さだ(1525~1546)・山内上杉憲のり政まさ(1523~1579)、北条方・河越城(埼玉県川越市郭町)を攻める。00971月31日北条氏綱、玉縄城を出陣。00982月2日北条氏綱、扇谷上杉方の下総国葛西城(東京都葛飾区)大石石見守を攻略する。北条氏は、房総への足がかりを築く。また、武蔵国岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)に向かい兵を動かし、近辺をことごとく放火する。00995月16日北条氏綱の軍勢(駿河国須す 走ばしり氏し ・北条家臣垪は和が氏し)、この夜、甲州都つ留る郡吉田新宿(山梨県富士吉田市)を襲い、吉田宿のおとな衆は下吉田河原に避難する。01005月- 北条氏綱(1487~1541)と武田信虎(1494~1574)が、和睦する。01018月- この月、武田信虎(1494~1574)と大井夫人(1497~1552)の父・大井信達(1474~1552)らが、冷泉為和(1486~1549)を招き和歌の会を武田館で開く。010210月- 小弓公方足利義明(?~1538)、里見義よし堯たか(1507 ?~1574)・真ま里り谷やつ信のぶ応まさ(1515~1552)ら軍1万を従えて、国府台城(千葉県市川市国府台)に入る。北条氏綱(1487~1541)、嫡男氏康(1515~1571)や弟長綱(幻庵)(1493~1589)ら2万の軍を率いて江戸城に入る。010310月7日「第一次国府台合戦」。小弓公方足利義明、松戸相模台(千葉県松戸市)で、北条氏綱と合戦して討死する。010410月10日北条氏綱、小田原に凱旋。010510月12日北条家の家臣須走氏、垪は和が氏しと談合して、上吉田(山梨県富士吉田市)へ夜討。宿の人々吉田衆油断していて悉く殺される。010611月27日桜井松平内膳正信定(?~1538)、没。松平家の総領争いは鎮静化するも、信定は広忠(家康の父)に対して恭順とは程遠い態度をとり続けた。このため、広忠派であった弟松平義春すらとも対立していた0107西暦1537その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 武田家三代年表帖 上巻49