武田家三代年表帖(上巻)

武田家三代年表帖(上巻) page 19/20

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天文9 5月- 武田信虎(1494~1574)、宿将の板垣信のぶ方かた(1489 ?~1548)に令して佐久郡に出陣し、1日で36の城を落としたと伝える。ついで、前山城(長野県佐久市小宮山)を築く。01166月6日「第一次安城合戦....

天文9 5月- 武田信虎(1494~1574)、宿将の板垣信のぶ方かた(1489 ?~1548)に令して佐久郡に出陣し、1日で36の城を落としたと伝える。ついで、前山城(長野県佐久市小宮山)を築く。01166月6日「第一次安城合戦」。信長父・尾張(愛知県西部)の織田信秀(古渡城主)(1510 ?~1551)、刈屋城水野忠政(1493~1543)ら3千の兵を率いて三河(愛知県東部)に侵攻、弱体化した松平氏本拠・安あん祥じょう城じょう(愛知県安城市安城町)を攻め落とし、守将松平左馬助長家(清康の大叔父)は敗死。信康(広忠の弟)・松平甚六郎康忠をはじめ譜代の林藤助忠満・渡辺右衛門照綱・本多弥八郎正貞・弥七郎正行(正貞弟)・内藤善左衛門・近藤与一郎・足立弥市郎ら、50余人が戦死した。■両軍合わせて1千以上の死者が出た激戦だったといい、現在もその時に築かれた塚(東条塚、千人塚)が残っている。011710月- 武田信虎、諏訪頼重を訪問する。011811月29日「武田氏と諏訪氏、同盟」。戦国期に甲斐国守護の武田氏と信濃国諏訪郡領主諏訪氏は抗争を繰り広げていたが天文4年(1532)に和睦し、この日、同盟関係の証として、武田信虎の三女禰々(1528~1543)が諏訪頼重(1516~1542)に嫁ぐ。011912月9日諏訪頼重、甲府を表敬訪問する。頼重、武田屋形に婚儀の礼を行う。012012月17日武田信虎、諏訪を表敬訪問する。0121冬室町幕府第12代将軍・足利義晴(1511~1550)、諸国へ令を出し、40町を一里とし、一里塚を築き松・榎を植えさせる。0122西暦1541天文10 1月22日北条氏綱(1487~1541)、堀之内氏に、武田信虎が駿河・信濃国境へ出馬すれば、帰陣するよう伝える。01232月1日武田信虎が、板垣信方を通じ、本願寺証如光教への贈り物と書状を届ける。01245月13日「海野平の戦い(神川合戦)」はじまる。甲斐の武田信虎(信玄の父)(1494~1574)、信濃北部の豪族・村上義清(1501~1573)・諏訪頼重(1516~1542)を誘い、小県郡(長野県上田市)の海野棟綱(?~?)ら滋野一族を攻める。■武田信虎は、村上義清に、信州国東部への共同侵攻作戦を持ちかけ、武田信虎・諏訪頼重・村上義清の三氏同盟を成立させた。01255月23日「海野平の戦い(神川合戦)、海野氏敗北―小県郡の大半は、信濃国北部の豪族・村上義清の領土となる」。武田信虎(1494~1574)・武田晴信(信玄)(1521~1573)、海野平(上田市蒼久保から東御市左岸南西部)で海野棟綱らに大勝。■滋野一族の禰津、望月、矢沢らは、武田氏に降伏。01265月25日真田幸隆(幸綱)(信繁の祖父)(1513~1574)ら、上野へ逃げ、まずは上こうず野けの国くに吾あが妻つま郡ぐんの羽は尾お幸ゆき全てる(1521~1585)を頼り、その後、箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主・長野業なり正まさ(業政)(1491~1561)の下に身を寄せる。■上州の吾妻郡は数多くの海野氏の支族(親戚関係や同盟関係)が支配していた地域で、それに隣接した業正(業政)は関東管領である上杉氏の家臣だった。■真田幸隆(幸綱)は、羽尾幸全の娘を妻(側室)にしており、幸全は義父にあたる。01276月4日武田信虎、晴信(信玄)、甲府に凱旋帰国する。0128西暦1540その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 武田家三代年表帖 上巻51