武田家三代年表帖(上巻)

武田家三代年表帖(上巻) page 3/20

電子ブックを開く

このページは 武田家三代年表帖(上巻) の電子ブックに掲載されている3ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
天文7年(1538)信玄長男義信が、三条夫人との間に生まれた。晴信(信玄)は、父信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541)5月23日の海野平の戦いにも参加するも敗北。甲府へ帰陣した同年6月14日には晴信や重臣の板....

天文7年(1538)信玄長男義信が、三条夫人との間に生まれた。晴信(信玄)は、父信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541)5月23日の海野平の戦いにも参加するも敗北。甲府へ帰陣した同年6月14日には晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと共謀、父信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。父信虎期の武田氏にとって、敵対している勢力は相模国北条氏のみで、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、天文6年(1537)2月10日には信玄姉定恵院を駿河国今川義元に嫁がせ同盟。信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行う。天文11年(1542)6月29日に晴信は、諏訪氏庶流である高遠頼継と共に諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重を甲府へ連行して、7月21日自害させ、諏訪領を制圧。諏訪領においては同年9月10には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して10月7日には諏訪領を掌握する。信濃侵攻を本格化させた晴信(信玄)は、天文12年(1543)9月には信濃国長窪城主大井貞隆を攻めて落城させた。信濃侵攻を企図していた晴信(信玄)は、両上杉氏を当面の敵としていた相模の北条氏康と天文13年(1544)12月に和睦を結び、ここに甲相同盟(第一次)が成立した。天文14年(1545)5月22日には、甲相駿三者同盟により北条・今川の援兵、武田氏の伊那箕輪攻城に参陣。駿河松川から今川軍の援軍3百が、武田軍と合流という。同年4月17日、離反した上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を追い散らし、続いて6月10日には福与城主藤沢頼親を攻落、伊那郡の北半分が武田氏の支配下に入った。7月24日の今川氏と北条氏の対立(第二次河東一乱)を、10月24日に仲裁して矢留、10月29日講和させた。それによって西方面の不安を除いた北条氏康は、天文15年(1546)4月20日、河越城の戦いで大勝。そうした動きが後年北条氏康武田信玄、戦いの生涯3