武田家三代年表帖(上巻)

武田家三代年表帖(上巻) page 5/20

電子ブックを開く

このページは 武田家三代年表帖(上巻) の電子ブックに掲載されている5ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
武田信玄、戦いの生涯5の小県郡戸石城をわずか1日で攻略した。これにより、晴信(信玄)は佐久の反武田勢力を掃討し、小県から北信濃へ向けて侵攻が可能になった。武田軍は次第に優勢となり、天文21年(1552)8月12....

武田信玄、戦いの生涯5の小県郡戸石城をわずか1日で攻略した。これにより、晴信(信玄)は佐久の反武田勢力を掃討し、小県から北信濃へ向けて侵攻が可能になった。武田軍は次第に優勢となり、天文21年(1552)8月12日、晴信(信玄)は、3千人の兵で、5百兵で守る安曇郡小岩嶽城を攻め落とす。これで、小笠原旧領の安曇・筑摩両郡、ほぼ武田支配下に入る。同年12月1日、今川義元娘・嶺松院が、甲駿同盟の一環として信玄嫡男・太郎(義信)と結婚。天文22年(1553)1月20日には晴信(信玄)と北条氏康が相甲同盟の誓書を交換した。同年4月9日、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。ここから長い「川中島の戦い」がはじまる。天文22年(1553年)4月22日「第一次川中島戦のはじまり~八幡の戦い」。本格的な信濃出兵を開始した長尾景虎(謙信)は、村上義清ら北信濃の国人衆の支援に出陣し、この日麻績から進軍した武田先鋒軍を更級郡八幡で破り、諸氏は旧領を回復する。村上義清は旧領を回復し、小県郡塩田城に拠る。同年5月7日、武田軍は、信州桔梗ケ原において、小笠原長時衆3千余騎と戦う。長時は、降参の故、誓紙を取り交わし城を渡す。同年8月5日、晴信(信玄)は、村上氏の最後の拠点、小県郡塩田城を攻略、村上義清は逃れて、また長尾景虎(謙信)を頼る。武田氏による東信地方制圧が完了した。また、この日、真田幸隆は上田小県への復帰果たした。真田幸隆