武田家三代年表帖(上巻) page 7/20
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西暦和暦月日出来事掲載頁1532天文1 9月- 「武田氏第18代・武田信虎、事実上の甲斐統一を達成する」。00011533天文2 ― 武田太郎(のちの信玄)(1521~1573)、扇谷上杉朝興娘を、正室として娶る。00041534天文3 5....
西暦和暦月日出来事掲載頁1532天文1 9月- 「武田氏第18代・武田信虎、事実上の甲斐統一を達成する」。00011533天文2 ― 武田太郎(のちの信玄)(1521~1573)、扇谷上杉朝興娘を、正室として娶る。00041534天文3 5月12日「織田信長、生まれる」。吉法師(信長)(1534~1582)、生まれるという。000511月- 武田太郎(のちの信玄)妻・扇谷上杉氏、懐胎して没する。00071535天文4 6月5日甲斐の守護大名・武田信虎、今川氏の駿河に侵攻する。00089月17日武田信虎(1494~1574)と諏訪碧雲斎(頼満)(1473~1540)、和睦が成立する。001812月3日家督相続から10余年で三河をほぼ統一した三河安祥城および岡崎城主・松平清康(家康の祖父)(1511~1535)、再び、1万余りの大軍で尾張に侵攻開始。002212月5日松平清康、清洲城の支城・守山城攻め陣中で、家臣阿部弥七郎正豊に村正刀で暗殺される。主を失った三河勢は岡崎に撤退。俗に言う「守山崩れ」である。享年25。002412月28日息子の罪の償いのため千松丸(仙千代)を護る阿部定吉(1505~1549)は、松平仙千代広忠(家康の父)12歳(1526~1549)を伴い、岡崎城を脱出。00271536天文5 1月17日武田信虎嫡男・太郎(後の晴信・信玄)(16歳)、従五位下左京大夫に任ぜられる。00293月-この月、武田信虎嫡男・太郎、元服し将軍足利義晴の偏諱をうけて晴信(後の信玄)と名乗る。00323月17日駿河国の今川氏当主氏輝(24歳)(1513~1536)、弟彦五郎(?~1536)と共に、突然、没。死亡月日は異説あり。00345月25日「花倉の乱―5月25日~6月10日」。駿河今川家中で御家騒動が起きる。太原雪斎(1496~1555)ら重臣たちは、弟栴岳承芳(氏親三男)(18歳)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、「義元」と名乗らせ後継にしようとする。外祖父福島上総介は、義元の異母兄弟・遍照院住職良真(玄広恵探)を擁立し挙兵、内戦線状態となる。00386月14日「花倉の乱」、終結。玄広恵探(1517~1536)、花倉城を攻められ、瀬戸谷の普門寺で自刃。この乱で、相模の北条氏の支援も得て、今川義元(1519~1560)が勝利し、家督を継ぐ。00447月-この月、武田信虎、今川義元の斡旋により、公家三条公頼の次女(三条夫人)(1521 ?~1570)を嫡男晴信(信玄)(1521~1573)の正妻に迎える。00467月27日「天文法華の乱」。比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、四条口から京へ乱入、各所に放火。翌日まで持った本國寺を含め洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上する。00478月3日越後守護代長尾為景(1489 ?~1543)、家督を長男晴景(1509~1553)に譲る。晴景、守護代となり、守護・上杉定実(1478 ?~1550)と争う。■二男虎千代(景虎、上杉謙信)(7歳)(1530~1578)は、林泉寺に入り、天室光育(1470~1563)に学ぶ。004811月- 武田晴信(信玄)、信濃佐久郡の戦いに初陣。005815目次