武田家三代年表帖(上巻)

武田家三代年表帖(上巻) page 8/20

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西暦1532天文1 9月- 「武田氏第18代・武田信虎、事実上の甲斐統一を達成する」。今井信元(1484 ?~1575 ?)が、諏訪氏の援を得て、武田信虎(1494~1574)に反旗を挙げて、多麻庄小倉の浦城(山梨県北杜市須玉町....

西暦1532天文1 9月- 「武田氏第18代・武田信虎、事実上の甲斐統一を達成する」。今井信元(1484 ?~1575 ?)が、諏訪氏の援を得て、武田信虎(1494~1574)に反旗を挙げて、多麻庄小倉の浦城(山梨県北杜市須玉町江草)に籠城して信濃衆からの後詰を依頼する。しかし信虎の攻撃で降伏し、信虎の膝下となり甲府に出仕。■武田信のぶ虎とらは、甲斐国の守護大名である武田家第17代当主・武田信のぶ縄つな(1471~1507)の嫡男として生まれる。幼名五郎。元服後の初名は信直。永正4年(1507)父信縄の死去により14歳で家督を継ぐこととなるが、その直後に信縄の弟で叔父の油あぶら川かわ信のぶ恵よし(?~1508)が謀反を起こす。この当時の武田氏は一族内が安定しておらず、信恵は兄の生前から家督を狙って度々謀反を起こしていた。永正5年10月4日、坊ヶ峯(笛吹市境川町坊ヶ峰)合戦で叔父油川信恵を討つ。武田宗家の統一。永正17年(1520)に信虎は大井氏とも和睦し、信達の娘(大井夫人)を正室に迎える。大永元年(1521)11月23日、今川氏親の重臣福島正成が駿河から甲斐へ乱入すると、上條河原合戦で福島正成を討ち辛くも勝利。福島乱入事件。享禄3年(1530)扇谷上杉氏の当主・上杉朝とも興おきの斡旋で山内上杉氏の前関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えた。0001西暦1533天文2 3月20日「岩津の戦い」。三河岡崎城主・松平清康(安城松平家4代目、家康の祖父)(1511~1535)、東広瀬城(豊田市東広瀬町字城下)主三宅氏・寺部城(豊田市寺部町1丁目)主鈴木氏らとの岩津(愛知県岡崎市岩津町字東山)で戦い勝利。000212月- 松平清康、三河に侵入した信濃兵を井田野(岡崎市井田町周辺)で撃破。0003― 武田太郎(のちの信玄)(1521~1573)、扇谷上杉朝とも興おき娘を、正室として娶る。これは政略結婚であるが、晴信(信玄)と彼女の仲は良かったと伝えられている。0004西暦1534天文3 5月12日「織田信長、生まれる」。吉きっ法ぽう師し(信長)(1534~1582)、尾張国古渡城主・織田信秀(1510 ?~1551)・土田御前(母)の拠る勝しょ幡ばた城に、次男または三男として生まれるという。00057月中旬今川・北条軍1万、甲斐へ侵入。000611月- 武田太郎(のちの信玄)妻・扇谷上杉氏、懐胎して没する。0007西暦1535天文4 6月5日甲斐の守護大名・武田信虎、今川氏の駿河に侵攻する。00086月13日第105代後奈良天皇が越後守護代・長尾為景(謙信の父)(1489 ?~1543)に、失われた御旗を再度、発給。為景は、室町幕府が空中分解しているため、朝廷に敵対する上条氏征伐の正当性を求めた。00096月27日駿河の守護大名・今川氏輝(1513~1536)、武田信虎(1494~1574)を撃つべく出陣し、相模の守護大名・北条氏綱(1487~1541)に援軍要請をする。00107月5日武田信虎、富士口で合戦。今川氏の第10代・今川氏輝、北条氏綱・氏康に籠坂口の援軍を求める。00117月27日今川氏輝、武田信虎と万沢口(山梨県北巨摩郡南部町万沢)で対峙。001240